石平はるひこ
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2012,10,06, Saturday
釜蓋遺跡の現地見学会がありました
本日、わが家より歩いて10分ぐらいのところにある斐太遺跡群・釜蓋遺跡の現地見学会が午前と午後の2回あり、午前の部に参加しました。
釜蓋遺跡は、弥生時代の環濠集落ですが、新幹線駅直近の国指定史跡の歴史公園として、新幹線開業までに一定の整備を行うために市で発掘調査をしています。
新幹線新駅の外装が着々と出来上がる光景を間近にしながら、現地説明が行われました。
開会前に石包丁の研ぎの実演(稲荷の吹上遺跡で古代米の稲刈りに使用)
今秋の発掘調査では、遺跡内の環濠(1号~3号)の関係を把握することを目的にしていましたが、その成果が発表されました。
すなわち、1号環濠が埋まった後に3号環濠が掘られたことです。
夏の見学会のときには、1号環濠が埋まった後に2号環濠が掘られたことがわかっていました。 そうすると2号環濠と3号環濠の関係はどうなっているのかですが、今回の調査で、両環濠は接合しており同時期のものであることが分かったとのことです。
現地説明に先立って、市の吹上・釜蓋遺跡調査指導委員会の岡村委員長(奈良文化財研究所名誉研究員)から、釜蓋遺跡の概要と遺跡の重要性が説明されました。
遺跡の重要性を説明する岡村委員長
岡村委員長の話を熱心に聞く参加者(下の写真も)
奥に遺跡、その向こうに妙高山が見えます
奥に遺跡、その向こうに新幹線の高架橋(右側に駅舎)が見えます
その中で、調査はまだ1割ぐらいだが、この遺跡の内容から、この地が「環濠集落」というよりは「弥生都市」というイメージであり、弥生時代、奴奈川姫が納めていた地域(の政治経済)の中心であったと思われること、弥生時代の環濠集落の発見された最北端に位置すること、そのような学術的意義のために、発見から3年ほどのスピードで国指定史跡になったものであることなどが明らかにされました。
1号環濠と2号環濠の関係が分かる発掘現場(以下4枚)
秋ですね。トンボも見学です(前の人の帽子の上)。
台風(雨)の影響で崩れてしまった2号環濠断面を説明する岡村委員長
2号環濠と3号環濠の接続部分の発掘現場
岡村委員長が、縄文人と弥生人の顔の特徴を説明
(岡村委員長と左の女性が縄文人、他の男性2人が弥生人とのこと)
楽しく興味深い見学会でした。
なお、見学会が終わってから、岡村委員長、小島委員長(市の吹上・釜蓋遺跡整備活用委員会)と現場で立ち話をしました。
今後の調査や整備のあり方に及び、財政的な問題も含め大きく難しい課題について率直な意見交換を行いました。
デリケートな問題なので、ここでは内容に立ち入るわけにはいきません。
改めて一般質問等で取り上げたいと思います。
帰りに新幹線駅舎を写しました。
刻々と変わる工事の進捗状況をご覧ください。
駅舎西側(手前は調整池)
駅舎東側
釜蓋遺跡を守る(生かす)ための流れを作ったのは私
大仰な見出しで申し訳ありませんが、ことの本質をわかりやすく書いたらこうなります。
お隣、同じ斐太遺跡群の吹上遺跡については、発見当初からの保存に向けた私の活動は、すでに書きましたので、ここでは繰り返しません。
釜蓋遺跡は、吹上遺跡の保存活用の方向性が定まってきた頃(発掘調査の結果で評価がほぼ確定し国指定史跡に向かった頃)、新幹線新駅地区土地区画整理事業のための埋蔵文化財の試掘調査で発見されました。
このとき、選択肢は2つありました。1つは、一定の調査の後、埋め戻し、記録保存で終わらせて規定方針通り土地区画整理事業を行う(遺跡部分は西口アクセス道路と住宅団地化する)ことです。
事業者(ここでは市)や地権者などの開発意欲が強ければ(保存の合意がなければ)、この形になりますし、国内の開発にかかわる実績としては、こちらが圧倒的に多いでしょう。
もう1つは、現在行われているように、遺跡区域を土地区画整理事業の区域から外し、住宅団地部分を他に用意して、遺跡(歴史公園)として保存活用することです。
遺跡の貴重性などから市を説得することができたとしても地権者の合意形成に相当のハードルがありますので、大変難しい選択ということになります。
そんな中、私は、相当早い時期(マスコミに発表するずっと前、平成17年の8月~9月ごろ)に、発掘調査を担っていた市教育委員会の担当責任者から報告と相談を受けました。
上記のような文化財環境が分かっていましたが、私は覚悟して、その場ですぐに絶対、保存に向かうべきと強く助言しました。
そして、土地区画整理事業を担当する都市整備部門にも早急な事業変更対応を行うべきと助言し、一方では土地区画整理事業の地権者の合意形成に動き出しました。
このことは、実は本当に大変なことだったのです。なぜなら、土地区画整理事業はすでに都市計画決定をしていましたので、都市計画の計画変更手続きが必要ですし、遺跡部分と同じ面積の代替地も新たに必要となりますし、さらに事業の時間的な遅れも出てくるために新幹線開業に向けての事業工程や地権者の生活設計との再調整も必要になります。
多くの既存地権者だけでなく、代替地を新しく求めるとすれば、その部分の地権者も含めて、200人を超える地権者をはじめとする地元住民の合意形成や手続きを、最初からやり直さなければならないわけです。膨大なエネルギーと情熱が必要です。
実際に、私の提案で地権者に遺跡保存(土地区画整理事業変更)の是非を問う意向調査を行いましたが、結果は賛成が半数にも達しませんでした。
そのような中でも、私は(もちろん都市整備部門の担当も頑張ったのですが)、地権者の説得や説明会でのお願いを丁寧に粘り強く行い理解を求めていったのです。
そして、ついに既存地権者も新しい地権者も理解をいただけることになり、都市計画(土地区画整理事業区域)の変更が実現し、晴れて釜蓋遺跡が保存できる環境になったのでした。
はっきり言って私の初期のこの決断とその後の実行(地元地権者の合意形成)がなかったら、いくら外側から保存の必要性が叫ばれたとしても、釜蓋遺跡の保存活用の方向性、ひいては国の史跡指定は実現できなかったでしょう。
したがって、市が理解があった、国も積極的だったなどといろいろ言う向きもありましょうが、そもそもの地元の合意形成を成し遂げたからこその保存活用方針と国指定史跡実現であったのです。
ですから、その方向性が定まった後でなら、いくらでも何でも好きなことが言えるものですね、というのが、本当に大変な状況の中で最初に汗をかいた立場からの率直な感想です。
ちょっと言い過ぎでしょうか。一生懸命、最初に物事の大本で頑張った人のことを、少しは評価してほしいという気持ちも理解していただけないでしょうか。
中国に「水を飲むとき、井戸を掘った人のことを忘れない」という故事がありますが、日本の場合は、そのような品格がないとは思いたくないのですが、どうなんでしょうか。
なぜ、ここまで私が自分のことを力説するかといえば、この間の行政の態度に我慢がならないからです。
この間3回にわたり一般質問で、住民との約束を反故にして知らないふりをする市長以下行政の問題点(行政の倫理性・信頼性・継続性の欠如)を指摘して是正を求めてきましたが、全く意に介したふうがありません。
せめて市民の皆さん、あるいは良心的な行政職員の皆さんには、1つひとつの事柄(事実)を通じて、わかっていただきたいと思っています。
何を偉そうに、と思われるであろう、何も知らない方のために、自己紹介しておきますが、私は新幹線新駅周辺地区に在住する市議会議員という立場だけでなく、地元の住民代表の立場で取り組んできました。
特に北陸新幹線の長野~上越間が着工してからは、新幹線に関連して地区全体を網羅する複数の地元住民組織の会長や副会長、部会長などの立場から、世紀の大事業である新幹線新駅周辺整備事業の着手に向けた住民合意と円滑な進捗のために、行政とのパイプ役になりながら先頭に立って頑張ってきたという歴史的な事実があるのです。
その事業を軌道に乗せるまでの初期の苦労や長い間の継続した努力は並大抵のことではなかったことは、苦労したものでなければ分からないものだったと思いますが、それを言ってはおしまいでしょうか。
さて、もう一言、国の史跡指定がまだ定まらなかったころに、財政難を理由に、一時は新幹線開業に向けた歴史公園整備の方針が、先送りされる方向に行ったことがありました。
私は、それを市教委の担当から知らされて(私の理解を求めての報告でした)大変驚き、逆に「そんなことは許されない」と、教育委員会はもとより市長や幹部職員に直談判し、まさに体を張って先送りを阻止(予算を確保)したのでした。平成19年の夏から冬にかけての頃でした。
ですから、現在は、新幹線の開業までに一定の整備を行うことに決定していますが、そのこと自体、自動的に決まったものではなく、市(市長や財政当局)との厳しいたたかいの結果、勝ち取ってきたものなのです。
市民の皆さんには初耳かもしれませんが、これが事実です。
いずれにしても、厳しい財政環境の中ではありますが、予算の確保や効果的な整備のために、今後も真剣に取り組んでいきたいと思います。
それが、長い人類の歴史の中で、現在に生かされている私たちの次代(未来)への責任であると思うからです。
皆さんのご支援とご協力、そして行政への鋭い注視を、よろしくお願いいたします。
新幹線まちづくり::2012年
| 07:50 PM |
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石平 春彦
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