石平はるひこ
CALENDAR
日
月
火
水
木
金
土
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
<<前月
2024年05月
次月>>
■最近の記事
お知らせ―過去ブログの追加 (05/20)
長い間お世話になりました。 ありがとうございました。 (04/28)
また職員の不祥事。 静かに去らせてくれないのか (04/28)
過去の取組、一挙掲載 (04/28)
政務活動費の収支報告書を議会事務局に提出 (04/25)
市長に議員職最後の面会。退任挨拶と問題提起 (04/25)
市議選が終わり32人の新市議決まる。牧田、ダントツのトップ当選 (04/25)
明日から市議選。理念つなぎ地区の議席を守るため牧田応援を決意 (04/16)
問題提起が実り上教大の植生の先生が大和神社の大ケヤキ調査 (04/14)
高田公園・貸ボート事故に関連し取材を受け、記者会見と市との確認会を行う (04/09)
副会長として新幹線まち協の解散総会に臨む。30年の住民運動に幕 (03/30)
議員最後の一般質問で市長に辛口のエール (03/18)
開業1周年の妙高山・上越妙高駅・新幹線 (03/13)
上越妙高駅開業1周年イベント、大賑わい 地元・大和2丁目のブースも大盛況 (03/12)
2日間にわたり総務常任委員会で数々問題提起 (03/11)
上越妙高駅開業1周年記念イベントまであと4日! 駅前町内会から大挙出陣!! (03/08)
大和小学校6年生から手紙 (03/01)
北朝鮮の弾道ミサイル発射に対する抗議決議 (02/29)
新幹線駅から5分のパワースポット(今泉城跡=大和神社の大ケヤキ)追記 (02/24)
新幹線駅から5分のパワースポット(大和神社の大ケヤキ)について (02/21)
■カテゴリー
議会(一般質問等) (47件)
2016年 (2件)
2015年 (2件)
2014年 (18件)
2013年 (13件)
2012年 (12件)
議会(委員会) (112件)
2015年 (7件)
2014年 (27件)
2013年 (52件)
2012年 (25件)
議会(その他) (95件)
2016年 (1件)
2015年 (6件)
2014年 (26件)
2013年 (39件)
2012年 (22件)
新幹線まちづくり (132件)
2016年 (4件)
2015年 (14件)
2014年 (52件)
2013年 (33件)
2012年 (27件)
2011年 (1件)
研究・学会 (23件)
2015年 (4件)
2014年 (1件)
2013年 (12件)
2012年 (5件)
2011年 (1件)
その他もろもろ (241件)
2016年 (14件)
2015年 (25件)
2014年 (61件)
2013年 (91件)
2012年 (46件)
2011年 (3件)
折々に (51件)
2016年 (1件)
2015年 (9件)
2014年 (14件)
2013年 (19件)
2012年 (8件)
活動報告 (5件)
2015年 (4件)
2014年 (1件)
〒943-0861
新潟県上越市大和2-10-25
トップページへ
<<前の記事
次の記事>>
2012,09,04, Tuesday
ヒロシマへの旅(8月29日付)を終え、私の「非核平和」活動を振り返る
「非核平和」は、「環境」、「自治」、「人権」とともに、私の活動の原点です。
このキーワードは今風の言い方ですが、30年近く前、20代で市議会議員に挑戦しようとしていた時は、次のように言っていました。
「反戦・反核」、そして「自然・自治・共生」
その頃、私は、小さな子育てグループを母体に「この街」という会報を出していました。オフセット印刷タブロイド判(「上越タイムス」の大きさ)6ページ前後で発行部数1,000部のなかなか「立派」なものでした。
(議員に当選してからは、私自身の「市政報告」を出し始めたため、この会報は3号で休刊してしまいました。)
私は、そこに小論を発表していたのですが、ここに私の原点の主張が見られます。
たとえば、「自然・自治・共生」というキャッチフレーズで、次のように説明しています。「自然なくらしをみなおそう」、「住民自ら政治を動かそう」、「みんなが人間らしく共に生きよう」。
私の10年来の生活や活動そのものから発せられたものでした。
そして、たとえば、「戦争への危険な動きに反対し、その一環として反戦・反核都市宣言を出させます。」
今でいえばマニフェストになりましょうか。
21世紀の今もなお、世界は戦火が絶えませんが、あの当時は、米ソの冷戦状態の中で、今にも増して国際的な核戦争の緊張状態が続いていました。
そのような中で、唯一の被爆国の市民として、自分たちの身近なところから、平和への願いを確固たるものにすることが求められていたのです。
ですから、地方議員をめざすものとして、当然の姿勢ではないかと考えていたのです。
そして、当時、選挙戦で掲げた私のシンボルマークがこれです。
キャッチフレーズの部分は説明した通りですが、真中の絵はなんでしょうか。
そうです。「平和」を象徴する「鳩」の絵です。そして、その鳩は花をくわえ、鳩の中には「母子像」が描かれています。
この絵を見て、即座にお分かりになった方もいるかもしれません。
この絵は、私にとって、とてもとても大切な宝物なのです。
実は、この絵の作者は、「原爆の図」で有名な画家の故・丸木俊さんです。(最大限の尊敬の念と親しみを込めて呼んでいることをご理解ください。)
当時、市議会議員に挑戦するという私のために、描いてくださったものです。
埼玉県東松山市の丸木美術館隣接のご自宅で、「あなたみたいな人が頑張らなくちゃだめよ。頑張んなさい。」と明るい口調で励ましてくださった俊さんの姿を、今でも鮮明に覚えています。
丸木俊さんと私(1983年10月)
丸木俊さんの代表的な絵本(表紙の一部)
そして、選挙前の集会には、丸木ご夫妻のお名前で激励のメッセージを寄せてくださいました。
「小さい者、弱い者、悲しい者、そういう者達が安らかに暮らせる世の中を、平和
と言う。
小さい者、弱い者、悲しい者、そういう者達が殺される。これを戦争と言う。
小さい者、弱い者、悲しい者達の幸せのためにお働き下さい。
ご当選をお祈りします。
丸木位里・丸木俊」
(つづき)
しかし、残念ながら、最初の挑戦は落選。
1988年4月の再挑戦で当選を果たした私は、就任間もなく、水道水源地のゴルフ場開発計画が浮上したことから、計画を断念させるために市民運動の先頭に立って議会内外で奔走しました。
ということで、非核平和の具体的な取組は、その活動が一段落した後のことでした。(1994年5月に「計画中止・水道水源保護条例の制定を祝う会」を開催して一応の終息)。
戦後50周年の節目の年、1995年(平成7年)は、直江津捕虜収容所の悲劇を越えて平和友好の架け橋を築こうとする市民活動の盛り上がりなどで、上越市の非核平和事業の画期をなす年となりました。
平和記念公園に平和友好像等が建立され、私もそのための寄付金集めに奔走しました。
1995年10月8日平和友好祈念像除幕式の様子
(「直江津捕虜収容所の平和友好像を建てる会」のチラシより)
記念式典には私も参加しました(オーストラリアの来賓(左側の女性)の奥)
(「直江津捕虜収容所記念誌」より)
議会でも、私は先導的役割を果たし、「核実験の即時全面禁止及び核兵器廃絶を求める決議」を9月22日に議決し、国に送付しました。
水面下での取組も効を奏し、12月15日、「非核平和友好都市宣言」を議会議決し、同月20日に宣言しました。この都市宣言に、私は案文作成の段階から深く関与しました。
こうして、とりあえずは、私のマニフェストを実現することができました。
この都市宣言を契機に、翌年から「非核平和友好都市宣言推進事業」が始まり、毎年8月の広島平和記念式典への中学生の派遣や上越市での原爆写真展、平和ポスター展などが実施されています。
市議会では、1996年以降も、私の主導で、臨界前核実験を含めあらゆる核実験に抗議する姿勢を貫くことを決定し、以後、議会の会期中は議会として抗議文を議決し関係国へ送付、閉会中は議長において抗議文を作成し送付(後日、各派代表者会議に報告)する形でシステム化しました。その方針は、現在に至るまでしっかりと堅持され、このような間断のない取組は、被爆都市の広島市や長崎市を除いて全国唯一ともいえる形で取り組まれています。
いずれも私が議長の時に送付したアメリカとロシアに対する抗議文
また、2000年には、戦後、日本兵捕虜の墓地を整備して供養を続けていただき、日豪友好のシンボルとなっているオーストラリアのカウラ市と友好交流都市を締結しましたが、その時、私は議長として調印式に臨みました。その時の写真と心をこめたあいさつ文を掲げておきます。
カウラ市の日本人霊園で献花・追悼(手前から、私、木浦市長、ミラー市長)
平和友好交流意向書の調印式(左からミラー市長、私、木浦市長)
私の議長あいさつ文
その他に特筆すべきこととしては、上越市は、「平和市長会議」に広島市、長崎市に次いで国内で3番目に加盟し、核兵器廃絶の国際運動の一翼を担っています。加盟は2008年2月28日のことです。
このことも、実は、私の市議会・一般質問における提言と「平和市長会議」への強い働きかけによるものだったのです。
平和市長会議は、被爆都市広島、長崎の提唱により、1982年に設立され、世界各地で5,000を超える都市が加盟(本年1月現在)して核兵器廃絶に向けた取組を国際的に繰り広げています。
しかし、国内では2007年まで、被爆都市という特別な位置からか、提唱(主宰)者の2都市以外には加盟の対応がとられていませんでした。
このような状況の中、私は、2007年6月の一般質問で、市長に加盟を強く求めるとともに、これに先立って、平和市長会議事務局の(財)広島平和文化センターに対し、非核平和連携の都市ネットワークを強化するために、国内都市の加盟受け入れ(加盟呼びかけ)を行うよう強く進言しました。
これを受け、平和市長会議は、2008年1月末に全国の自治体に加盟を呼びかけ、それに応じた68都市が第1陣として登録されたのです。現在、国内で1,232の自治体が加盟するまでに広がっています。(下記の公式ホームページをご覧ください。)
http://www.mayorsforpeace.org/jp/index.html
以上のように、非核平和の取組は、しっかりと上越市に根を張り、進展してきています。そして、そのような取組の節々で、縁の下の力持ち、あるいは先導的な役割を果たしてきた一人に私がいたことも、認識いただけたら幸いだと思います。
以上、石平はるひこの非核平和の取組でした。
(関連する取組としては、「反原発」「脱原発」の取組がありますが、「活動の軌跡」から「市政報告37号」の2、3、5、8、9ページをご覧ください。)
その他もろもろ::2012年
| 09:41 PM |
comments (0)
|
石平 春彦
この記事に対するコメントの受付は終了しています。
コメント
PAGE TOP ↑