石平はるひこ
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2015,08,12, Wednesday
上越妙高駅開業記念誌の作成のための取材を受けました
北陸新幹線・上越妙高駅の開業を祝い、これまでの運動の総括を行う記念誌の作成が上越市の26年度、27年度の2ヵ年事業として行われていますが、一昨日、10日に、市の担当と作成業者(株式会社交通新聞社)のライターによる取材がありました。
この記念誌の編集方針については、すでにこのブログで報告したように、3月議会の総務常任委員会の予算審査で私が問題提起し、さらに6月議会の一般質問でも取り上げて、市長に、「新幹線建設促進」と「新幹線まちづくり」の歴史的経過の事実を正しく後世に継承するように促しました。
特に問題にしたのは、過去に発行された記録誌(「21世紀にのこる乗りもの 新幹線」平成13年8月発行)の内容が、市長を中心とした行政側の取組がほとんどを占めていて、運動の重要な一翼を担った議会や市民(地元駅周辺・沿線住民)の取組が全くと言っていい程無視されたことでした。
私は、発行当時、議長を務めていましたが、記録誌の出版記念祝賀会のあいさつ(乾杯の発声)で、市長をはじめ国会議員などの居並ぶお歴々に向かって、この点を問題にするとともに、「今後、同種の記念誌が出版される暁には、運動の軌跡を正しく伝えるように配慮いただきたいものです」、と皮肉りました。
酒宴の中では、多くの方々が酒を注ぎにこられ、同感・賛同の言葉をかけていただきました。
帰宅した後の深夜、忘れもしない、乗っ取られた飛行機が超高層ビルに突っ込むというアメリカでの同時多発テロ事件が起こりましたので、その直前だったということで、鮮明に憶えているのです。
また、その1週間後の総務常任委員会でも、私は委員ではありませんでしたが、議長として出席していましたので問題にしました。
当時の新聞は、次のように報じています。
「市発行の北陸新幹線本 『市民の姿が見えない』 編集方針に偏り!? 市議会総務委で疑問相次ぐ」と題して、
「石平春彦議長は、『新幹線建設は、市民、議会、行政などが、全体で進めたこと』と述べ、昭和47年から市議会が建設促進運動に関わってきた経緯を具体的に示し、『体系的・系統的にまとめたというが、編集に関わった行政が当然承知しているはずの議会の運動は、本書の中で1行にも満たないたった20字しか記されていない。市長が先頭になってやったのはわかるが、一人でやったわけではない。運動の全体を示す必要があった。編集の仕方が偏っている』と質した。」(2001年9月19日付『上越よみうり』)
また、「『新幹線』冊子で論戦 総務委 内容と時期に疑念」と題して、
「石平春彦議長は、30年近くに及ぶという議会の建設促進要望活動の関わりを列挙した上で、『議会の記載はほとんどない。これでは偏ったやり方。宮越市長が一生懸命やったことは認めている。ただ市長が一人でやったわけではない。(市民)全体で取り組んだのなら、その例を挙げるべきだ。(11日の出版記念会で)小里(貞利)代議士も前半の15年が大変だったとおっしゃっていた』と、今後の市の出版物にくぎを刺す意味も含めて語気を強めた。」(同日付『上越タイムス』)
今回の私の問題提起も、この14年前の指摘の延長線上にあります。
しかし、行政側は、今回も、過去の教訓を生かすのではなく、私が問題にするまで全くその点を意識せず、前の轍を踏むところでした。
私が問題にして、初めて意識するようになり、編集が仕切り直しとなったのです。
私は、3月議会後も、さらに6月議会後も、所管の企画政策部長をはじめ担当者に、繰り返し、議会の取組のことも地元住民の運動についても、私が経過を知りうる当事者だから、きちんとヒアリングすべきだと水を向けてきましたが、一向に動きがありませんでした。
そのような中で、ようやく取材に動いたわけです。
まあ、ただ、第一歩と言えばそうですが、歴史を正しく伝えるためのものとしては、まだとんちんかんですね。
取材の目の付けどころが、おかしいんです。
今回は、「上越市北陸新幹線建設促進まちづくり協議会」の会長、副会長、部会長、副部会長を対象に全体を一堂に会して、行政の一方的な質問の形で行われました。
私は、案内があったときに、こういう取材の体裁(現在の肩書を対象とした横並びの取材)なら出席してもほとんど実のあるものにならないし時間の無駄だからと一時は難色を示しましたが、今回が終わりではないし、遠慮せずに話してもらってよいから、というので、とりあえず付き合うことにしました。
皆さんには、はっきりさせておきましょう。
その中身まではあまり立ち入りませんが、私がどういう役回りをしてきたかの事実関係だけを述べますので、少しの時間ご容赦ください。
まず議会の関係でいえば、私は、議員に初当選した1988(昭和63)年から今日まで27年間、一貫して新幹線の特別委員会に所属し中央要望活動を繰り返してきましたし、その間一番促進運動を強力に推し進めた時期に高速道新幹線対策特別委員会委員長として、うちの市議会はもとより、上越3市議会の合同中央要望活動を組織するなどのリーダーシップをとりましたし、あるいはその後、副議長としても宮越市長や平山県知事とともに中央要望活動を行うなど先頭で取り組んできました。
1994(H6)年10月31日、上越3市(上越、糸魚川、新井)の議会の新幹線に関する特別委員会で合同の中央要望活動を展開。私は上越市の特別委員長として他の市議会に呼びかけ先頭で取り組みました。東京都千代田区永田町の自民党本部で森幹事長に直談判する私。
1996(H8)年12月20日、東京都の赤坂プリンスホテルで行われた北陸新幹線建設促進期成同盟会の緊急総会に鉢巻き姿で参加した私。
長野・上越間着工後に議長となりましたが、沿線市町村議会の長野・上越・糸魚川ルート建設促進協議会の会長や上越市が組織したいわゆる「フル協」や新潟県が組織した「北陸新幹線建設促進期成同盟会」のそれぞれの理事として、着工後の建設促進と諸課題の解決に向けて率先して取り組んできました。
また、市議会議長会では、上越市議会として北陸新幹線の建設促進と駅周辺整備への支援を求めた議案を提出し、新潟県市議会議長会、北信越市議会議長会とコマを進め、全国市議会議長会の場で議案を提案し成立させるとともに、国に対する実行行動へと導きました。
私が新幹線の議案提案を行った第77回全国市議会議長会定期総会の全景。2001(H13)年8月12日、東京都の日比谷公会堂。
同上。「北陸新幹線の建設促進と新幹線新駅周辺整備の支援について」の北信越部会提出議案の提案説明を行う壇上の私。
議長を退任してからの11年間も、新幹線の特別委員会で取り組むとともに、節々で各派代表者会議等で提言し、新幹線に関する上越市議会の方向性を指し示してきました。
昨年の開業前の列車運行計画公表時に上越妙高駅に速達型列車「かがやき」が停車しないことがわかった際に、いち早く議長や各派代表者会議に提案し、緊急に抗議と停車を求める決議を実現して、その後の県知事や上越3市長の要望活動に繋げました。
さて、次に、地元住民運動については、下記の通りです。(以下続く)
<8月24日追記>
地元の住民運動についても、議員に就任してから一貫して重要な位置でリーダーシップをとってきました。まさに住民運動の歴史とともにあったといっても過言ではありません。
地元住民運動は、1985(昭和60)年3月23日の「北陸新幹線脇野田駅建設促進及び周辺沿線整備対策協議会」の設立に始まります。
和田地区(脇野田駅周辺の地区)の各町内会など各種団体が参加した協議会ですが、その後、金谷南部、高田南部、三郷、新井市北部という近隣の地区の各町内会等も参加するとともに、1990(平成2)年4月には名称を「北陸新幹線上越駅建設促進対策協議会」に変更し、新幹線建設の行方が不透明な苦しい時代に住民の意思を糾合して取組を進めました。以下、簡略に「地元対策協」といいます。
そのような中、私は、1988(昭和63)年7月から相談役、1990(平成2)年7月から1999(平成11)年7月に解散するまで顧問として活動しましたが、それは地元選出議員という立場からの肩書で、実際は、たとえば初期の運動の象徴ともいえる大きな取組だった1988(昭和63)年8月の「北陸新幹線上越駅実現住民総決起大会」で、会場に掲げられた集会名称の横断幕を手作りしたように、執行部側のスタッフとして一生懸命取り組みました。
1988(S63)年8月31日、大和小学校体育館。地元対策協主催の「北陸新幹線上越駅実現住民総決起大会」会場に掲げられた集会名称横断幕は私の手作り。
同上。住民総決起大会に参加した地元住民の皆さん。
運動の末、念願かなって北陸新幹線長野・上越間が着工し、着工を祝う住民の集いに地元を中心に多くの住民が参加しましたが、これも「地元対策協」が取り組んできた成果でもあります。
1998(H10)年3月28日、脇野田駅前。お祝いの横断幕の下で記念撮影。
同上。住民の集いに集まった住民の皆さん。
同上。住民の集いで、地元新聞社の取材を受ける私。
また、北陸新幹線の長野・上越間着工後に「地元対策協」の後身として上越市も加わり1998(平成10)年10月に設立された「上越市北陸新幹線建設促進まちづくり協議会」(以下「まち協」といいます)では、ルート沿線住民代表として役員(理事)に就任し、その後、2002(平成14)年からは副会長(兼大和地区対策部会長)として、引き続き先頭になって取り組んできました。
2010(H22)年8月12日、上越市ラーバンセンター。まち協の大和地区対策部会として視察後に意見交換会を開催。挨拶しているのは部会長の私。
同時に、地元中の地元、駅周辺直近地区である大和地区として、北陸新幹線建設促進運動とともに、新幹線を見据えたまちづくりの基礎を築くために、まず地区の住居表示の実施に向けて議員として尽力し、1996(平成8)年6月に信越線の東側(大和1丁目から大和4丁目)、1998(平成10)年6月に信越線の西側(大和5丁目、大和6丁目)を実現しました。
続く長野・上越間着工後の1999(平成11年)8月には、新幹線の開業を見据えて駅周辺地区整備事業の実施に向けた機運醸成と住民参加の計画づくりのための地元の合意形成と協力体制構築のために、地元の町内会や団体を糾合して「新幹線新駅周辺地区まちづくり懇談会」(以下、「まち懇」といいます)を設立し、その会長となってリーダーシップを発揮し、現在行われている上越妙高駅周辺地区の各種整備事業に至るまちづくり計画のための基礎を築きました。
特にこの「まち懇」の取組は非常にエネルギーのいるものでしたし、歴史的に大きな役割を担いました。
5回にわたる勉強会、研修会で新幹線駅周辺の先進地の取組や整備計画(市案)を学び、検討しながら、懇談会やアンケート等で参加者や住民の意見を求め、それを土台として地区住民の意見を取りまとめ、市長に10項目の要望を行うとともに、改めて市長や鉄建公団(現・鉄道運輸機構)を招いて説明会を開催しました。
1999(H11)年11月25日、今泉公民館。第3回まちづくり懇談会で会長として挨拶する私。
なお、右端は、当日の講師を務めていただいた上越市の各種調査も受託している総合建設コンサルタントの「日本技術開発株式会社」の田中都市計画部長代理で、演題は「新幹線駅周辺のまちづくりについて」。
2001(H13)年2月15日、議長室。「まち懇」の市長要望を終えて、みんなで記念撮影。右から会長の私、副会長の大和3丁目町内会長、以下幹事の大和5・6丁目町内会長、大和1丁目町内会長、大和4丁目町内会長、大和2丁目町内会長。
2002(H14)年7月24日、上越市ラーバンセンター。第5回まちづくり懇談会で会長として挨拶する私。
なお、私の左隣は、日本鉄道建設公団北陸新幹線建設局の田村工事第二課長。他に佐川計画課補佐、竹津上越鉄道建設所長が出席しました。また、市からは、木浦市長(遅れて出席のためこの写真には写っていない)、田中都市整備部長、野口都市計画課長、山野新幹線建設対策課長、杉本新駅周辺整備係長が出席しました。当時の名簿を見ると住民参加者は115人でした。
ところで、「まち懇」を立ち上げてから、途中、市長の交代もあり、なかなか市の方針が定まらなかったことから、この間の取組は3年間を費やしました。
そして、2002(平成14)年5月に、「まち懇」の要望書に対する木浦市長の回答書の交付を得て、その報告も兼ねた上記の「第5回まち懇」を行い、その上で、翌8月から「駅周辺整備の全体計画」の作成にむけた担当部署(上記の面々)と「まち懇」の役員(会長の私と副会長、幹事の全町内会長)との事前協議を5ヶ月間にわたり10回近く(役員3回、会長6回、計9回)行ったのです。
当然、議員としての私の市長や助役への直接的な働きかけや各種要望(議会の一般質問や常任委員会の議案審査における提案、会派要望、私の後援会総会での要望等)も同時進行しましたが、粘り強い話し合いの中で地元要望や提案を市が具体的に受け入れることにより、ようやく地元説明会が行えるまでになりました。
このような経過を経て、2002(平成14)年12月~2003(平成15)年1月にかけて、初めて市による駅周辺整備計画の地元説明会が開催されることになり、議会の一般質問等での私の強い提案を受けて、後にも先にもこの時限りの歴史的なこととして市長あるいは助役が直接住民に協力を要請するために出席するとともに、既存市街地の整備事業をはじめ土地区画整理事業や幹線アクセス道路改良事業などの今後の整備の全体計画が示されました。
(説明会は、市長あるいは助役の出席した町内会別の4会場に加えて、その前段で市長あるいは助役の出席しない「地権者代表」対象と「まち協の大和地区対策部会」対象の2会場、計6回(5会場)で開催され、いずれも私が「まち懇会長」、及び途中から「まち協大和地区対策部会長(兼務)」として出席し、下記の挨拶をしました。)
この全体計画の中には、私たち「まち懇」役員と市との事前協議で作成した既存市街地の整備事業を示す「都市計画道路網図」があり、「新幹線新駅周辺地区整備の全体計画」の一部として示されました。
それが、後に、2007(平成19)年度からの1期5ヵ年の3期、計15カ年計画の「まちづくり交付金事業」(後の「都市再生整備事業」)となって具体化されたのです。
私は、「まち懇」の会長(及び直近に就任したばかりの「まち協」の大和地区対策部会長)として説明会に出席し、市長、助役の前座で挨拶し、これまでの「まち懇」の議論と取組を踏まえて計画された「新幹線のまちづくり」にとって欠かせない事業であるからと、未来志向で深い理解と協力を求め深々と頭を下げました。
2002(平成14)年12月25日、大和5.6丁目町内会館。まず私が地区の代表(「まち懇」会長及び「まち協」大和地区対策部会長)として「整備計画への深い理解と協力」を求めて挨拶しました。
なお、私の左隣は、大和5.6丁目町内会の大島町内会長。
同上。次に、木浦市長が、市の計画と事業への決意を述べながら地元住民の協力を要請しました。
なお、出席した市の担当者は、左奥の右から都市計画課の野口課長、宮崎副課長、新幹線建設対策室の山野室長、新駅周辺整備係の杉本係長、上島係員。私たち「まち懇」と事前協議を繰り返して全体計画(主に既存市街地の整備部分)を作成した市担当の面々です。
同上。次に、担当の山野室長が、資料をスクリーンに映し出して計画概要の説明を行いました。
その後、多くの参加者から様々な質問や要望、あるいは厳しい意見が出され、市担当の即答や、あるいは持ち帰り検討の意向が示されましたが、「まち懇」役員と市との事前協議を重ねた成果が既存市街地の整備計画となって示されたことや前段の私の要請があったことなどから、まずは概ね良好な雰囲気で会を閉じることができました。
また、その状況は、いずれの会場にも共通していました。
以上の経過を踏まえ、翌2月からは、市による事業別エリア別の具体的な説明会が開始され、2008(平成20)年度までに延100回ほどの会合が実施されました。
駅へのアクセス道路拡幅や駅周辺地区の土地区画整理事業により、伝来の生活の場や生業の場を失い、隣組や町内会がばらばらになってしまう現実の前に、厳しくも粘り強い議論が展開されました。
そのような中で、150軒を超える家屋移転世帯と300人を超える住宅・農地の地権者が、ここでも犠牲的精神と未来志向で苦渋の決断を行い、こぞって事業に協力することになったのです。
さらに、私はここ数年は、駅周辺商業ゾーンの地権者組織(「新幹線新駅周辺地区商業地域土地利用促進協議会」)としても取り組み、「土地利用方針(市案)」の見直し策定や「地区計画」、「まちづくり協定」の策定に尽力するとともに、企業(商業業務施設)誘致にも苦闘してきました。
ここでも私は、役員(検討委員会委員及び理事)として各種計画の策定や組織運営に重要な役割を担ってきました。
振り返ってみると、特に「まち懇」の取組がなかったら、とうていこのような比較的スムーズな協力体制で今日に至ることにはならなかっただろうと思いますし、市の地元対策も至難の技になっていたことは想像に難くありません。
そういう意味で、地元住民の取組と努力は立派だったと思いますし、逆に、市もこの「まち懇」の努力と経過を深い感謝の念で正しく認識してもらわなければなりません。
しかし、残念ながら、「まち懇」をはじめとした住民運動の長い歴史を歩んできた私の目からは、そうなっていないのが現実です。
行政は、自らの勝手な思惑で、正しい歴史的経緯から目をそらそうとしているかのようです。
しかし、私がそれを許さない姿勢で問題提起してきたために、表立った形(自分たちに都合のよい歴史記述)をとれないでいるというのが本音でしょう。
さて、話を戻します。
このような議会においても地元においても、重要な立場でこの30年近くを取り組んできた私ですから、歴史の生き証人として、また資料を保存しているものとして、ほとんど唯一存在しているようなものです。
残念ながら先達の多くの方々が他界されてしまいましたし、また私のように、運動の初期から現在に至るまで一貫して、多くの分野で要職を努め、その現場で先頭になって活動した人は、実際問題として存在しないのですから。
ですから、歴史を正しく継承するためにも、私に取材しなさい、と親切心で言っているのですが、何をためらっているのか、一向に進みません。
議会の取組の記録については、行政から議会に原稿が依頼されたようで、6月の各派代表者会議で事務局の案文が提出されましたが、私がいろいろ指摘した結果、改めて相談があり、6月議会の私の一般質問原稿をベースに、私もレクチャーしたり当時の写真などの史料を提供(貸出)したりしたことから、大幅な拡充がなされて、7月の各派代表者会議で大筋了承されました。
あとは行政側の原稿ですが、議会を通じて当時の写真を提供(貸出)していますが、それは初期(地元対策協)のもののみであり、肝心のその後の「まち懇」のときの史料は取材の時のために取ってありますので、行政側には渡っていません。
ただし、最初に記した「まち協」の取材の終了後に、私が作成した「地元の新幹線新駅周辺まちづくり活動の経過」(主な活動の年表と写真のモノクロコピー)を、参考までに交通新聞社のライターに渡しておきました。
その際、目の前で行政担当者が見ていましたので、どうせそちらの方にも渡っていることでしょう。
少しは勉強したかどうか。
そして、今後どうするつもりやら。
※ここに使用している写真は、極一部の提供写真以外は私の所蔵しているオリジナルですが、その中でも、今回、議会事務局と(それを通じて)行政に貸出している写真(現時点で9枚)は、一応配慮して使用していません。その他に「まち懇」など住民運動のものはもとより、「起工を祝う住民の集い」で平山知事、宮越市長、森代議士と園児が行った記念植樹の写真などもあります。
新幹線まちづくり::2015年
| 05:17 PM |
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石平 春彦
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